EVENT REPORT - 2012/10/21

オープンエンド

CHOREOGRAPH LIFE - 乱 -

posted: 2012/12/25

text: Kazeto Shimonishi

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終わらない問いがある。
答えに辿りつけないのではなく、本質的に終わりのない問いだ。
解かれた途端に問いは終わる。
問いが問いである限りにおいて問いであるような、そんな終わらない問いがある。
今回の森田真生のトークイベントのテーマ「Wandering and Wondering」から、そんなことを考えた。

【第一部】 ただそこに在ること

 "90% of life is just being there.(「生きているということのほとんどは、ただそこに在ること。」)"というW.Allenの言葉は、高度に意識を発達させた僕たちにはある独特な響きを持って響く。森田はこのW.Allenの言葉に込められた問いを読み解くことから話をはじめた。ただそこに在ること、ただその場所を占めてしまっていること、そういう存在のあり方とはどういうものだろうか。

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捨てられた情報

 3歳の時に事故で視力をなくし46歳まで盲目で過ごしたアメリカ人男性のマイクメイは、手術によって網膜に光の刺激が届くようになったが、世界は相変わらず見えなかった。なぜ彼には世界が見えなかったのか。物理的には網膜に刺激が届いているにもかかわらず、世界は光が散乱する混沌のままだ。彼は、光の刺激を利用してうまく像を作ることができなかったのだ。このことが示唆するのは、僕たちはこの世界をありのままの状態として見ているのではないということだ。この世界に存在する光の刺激はそれだけではただ雑然としたノイズにすぎない。それを解釈して世界を意味のある形で認識する方法を脳が学習しているからこそ、僕たちはこの世界を今目の前にあるように見ることができる。「視覚というのはありのままの世界を見るためのものではなく、ひとつの仮説と考えることもできる。」と森田は言う。
情報を解釈することは、情報を捨てることだ。事実、脳はそのほとんどの情報を捨て続けることによってこの世界を認識している。僕たちは素朴に、脳がこの世界の認識をつかさどる心の中心であるように思う。世界を観察し思考する脳には、この世界の多くの情報が詰め込まれているように思う。しかし、脳が扱うことができる情報というのは案外少ない。脳が一度に格納できる情報はおおよそ1テラバイト~10テラバイトという風に言われている。また、五感を通しておよそ1,100万ビットの情報が毎秒僕たちの脳に届いているという試算もある。そして、その1,100万ビットの情報のうち、僕たちの意識にのぼるのはたった40ビットほどだという。与えられた情報のうち、数百万分の1しか意識にはのぼらない。そもそも一人の人間に届いている情報は、この世界の情報の中ではごくごく微小なものであるが、そうしてようやく獲得された情報さえほとんど僕たちは捨てている。そんなあまりにも小さな情報をもとに、僕たちは「世界」という巨大な全体を認識しようとしているのだ。いかに僕たちが世界に対して局所的な存在であるかが分かる。

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局所に生きる

 実は、生命はそのはじめからこの局所性のなかに生きてきた。地球に40億年前に誕生した単細胞生物は、自分の内側と外側を区別することで内部に自己を構成する分子ネットワークのリソースを抱え、高速で化学反応のネットワークを組み替えている。このネットワークの組み換えは外部から与えられた刺激に対して正しく反応するようなものでなければ、自分の外部と辻褄が合わずに自己を維持できない。そのため生命は自分を自分の周りの局所的な環境と似るようにうまく作ってきた。
なんて僕たちは局所的な存在なんだ、という嘆きはいつも僕たちを苦しめる。もっと世界全体を知りたいのに、世界全体と繋がりたいのに、僕たちは本来的に局所的な存在なのだと。数学者であり、哲学者でもあるパスカルはその嘆きを克服するために「宇宙は私を包む。ひとつの点として私を飲む。しかし、思考によって私は宇宙を包む。」と言った。
パスカルはこの局所性を乗り越えるために、少し極端な思考を展開する。その一例が「確率による神の証明」だ。「神がいるか/いないか」という前提の中でその期待値を考えると、神がいない場合の確率がどれだけ高く、神がいる場合の確率がどれだけ低くても、神がいた場合の神の効用は無限大なはずなので、期待値は絶対に「神がいる」場合のほうが高い。だから僕たちは神がいることを信じて賭けるべきである、と。一見むちゃくちゃに聞こえるこのパスカルの提案も、ひとつの示唆を与えてくれる。僕たちが常に局所的な存在であるならば、世界の全体は常に未知である。そのとき、いかに未知な状況のなかで有意味な議論をするかということの方法のひとつが確率という数学である。
「僕たちは、何か確実に正しい真実があってそこに向かって論理的に進んでいくということはできない。僕たちはどうしても局所的な存在なので、偏った信念に基づいて、間違った何かを信じて、でも何か新しい知識や体験に出会うことで、その信念を書き換えることができる。そしてそうやって書き換えられた信念も、また新しい知識や体験によって書き換えられていく。」このように語る森田は、自分の内部に全ての情報を格納して世界を理解しようとするのではなく、自分が局所的な存在であることを受け入れた上で、自分の外部に存在する膨大な情報、そして自分を超えた存在といかに繋がるかという存在のあり方を考えているように見える。

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信念を更新する

 そのような局所的な存在として信念を更新し続けていくことこそが本質だと考えた数学者がいる。18世紀の数学者ベイズだ。これまでの古典的な確率の概念は「長くそれをおこなったときに現れる相対的な頻度」として確率を捉えていた。これは僕たちが一般に考える確率の概念で、例えば「コインを無限回投げれば、表が1/2の確率で現れる」のような客観的な頻度としての確率のことだ。しかし、「頻度としての確率」では、「一度もおこなったことのないこと」については何も言えない。そこで、ベイズは代わりに「不完全な知識を持った状況で、ある出来事の起こる確からしさ。」としての確率を考えた。ベイズの確率観は、客観的な出来事の頻度はではなく、むしろ主観的な信念に依存して計算されるものだ [1]
 森田はここで9.11のテロを例にベイズの定理を説明する。例えば、事前に何の信念を持たずに自爆テロが起こると思う確率を0.5%程度だと考え、純粋な事故であると思う確率は0.8%程度だとすると、実際に飛行機がビルに突撃したのを見たあとに、それをテロだと思う確率は38%になる。さらにここで信念が更新された状態で2機目の飛行機がビルに突撃した時にはそれをテロだと思う確率は99%にまで跳ね上がる。確率を客観的でプラトニックなものとしてではなく、主観的なものとして捉えるベイズの確率を使うことで、僕たちは自爆テロのような一度も起こったことのないような未知の事態に対しても議論することができる。そして、一機目の突入、二機目の突入、これらの出来事の目撃によって僕たちの主観的な信念としての確率は書き換えられていく。もし僕たちが予め、完璧で揺るがない信念を持っていたならば、すなわちある信念が完全に真か偽のどちらかでしかないようなものであった場合、その人間の信念は書き換えられることはない。僕たちは不完全な情報の中で確率的な信念を持っているからこそ、何か自分の外側で起こったエビデンスによって自らの信念を更新することができるのだ。情報は常に自分の外側にあり、私を超えたところから到来する何かによって私は生きることを更新する。

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[1]
古典的な確率をベイズの確率と比較して「客観確率」と呼ぶ。客観確率は、コイン投げのように無限にそれを施行した場合に現れる確率を想定し、不確実さは事象のランダムさに依存する。他方で、ベイズの確率は「主観確率」と呼ばれる。主観確率は観察者の信念の度合いをもとに確率を想定し、その信念の度合いからある命題の尤もらしさを計算する。ここでの不確実さは観察者の保持している知識や情報などに依存し、保持している情報によって観察者の信念が変わる度に確率を変えていくため、無限回の施行ではなくその度一回ごとの確率を考えることができる。