EVENT REPORT - 2012/08/05

CHOREOGRAPH LIFE

計算と暴力

posted: 2012/10/21

text: Yoon Woong-Dae

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地によって世界を説明し、天を覆い尽くす試み

 踵をキュッと鳴らして「ステージに立つのが好きなんですよね」という切り出しで始まったレクチャーは、ベンチからホイッスルとともに勢いよく飛び出してバスケットコートに踊りこむ情景を思い浮かべさせた。
 「バスケの練習で『地に足をつけろ』と言われたけれど、それだけではバスケはできなくて、大きな試合の流れを感じるのも必要だし、もっと上から降りてくるものを感じなくてはいけないんです」
 バスケットでも剣道でもテニスでもいい。経験者なら平面的なコートで行われるゲームの上達にあたって、しっかりと立つことや踏ん張りを強調する言葉をたくさん聞いたはずだ。それは僕らの営みが平面的な場所や空間で行われていることを微塵も疑わないからこその教えなのだろう。地の確からしさを信じられても、そこには天とのつながりは薄い。
 だが、かつては天地人という空間の把握が当たり前であり、洋の東西を問うものではなかった。
 揺らぎは紀元前6世紀に訪れる。ギリシアにおいては数学の営みの幕開けでもあり、それは天の摂理という自明さに耐えられなくなり、“なぜそうであるか?”と証明を求める知性の働かせ方をする人たちによって育まれた。
 その嚆矢は「万物は水である」と喝破したタレスであった。彼はエジプト人にとって自明であった「円に直径を引くと面積が二等分される」ことを証明した。
 タレスの弟子、ピタゴラスはその名の由来を神託にもつ人物だが、彼こそがマセマティックスという人為的な学問の名称を考えた張本人である。ピタゴラスは師とは異なり「万物は数である」と述べた。
 世界が数によって成り立つとはどういうことか。
 「たとえば1Lと2Lの水があったら、そのあいだの量は連続的ですよね。ところが数は1、2、3と飛び飛びです。ピタゴラスは連続的に推移する量を連続的ではない数によって表現できるんだと考えた。数と数の比、つまり分数だけを使ってすべての数が表現できると信じていた」
 この試みはピタゴラスの弟子の「ふたつの辺が1という直角三角形の場合、斜辺の長さを計算すると2になる。これは決して分数では表せない」という証明によって覆された。弟子はピタゴラスの命により葬られたという説もある。
 ピタゴラスの夢想は世界を数で記述するという、ある種の暴力を孕んだもので、地によって世界を説明し、天を覆い尽くす試みであった。しかし、それは挫折した。地の論理の揺らぎは以来、数学の営みの中で胚胎し続けた。

集合論の破たん

 時代は20世紀初頭に飛ぶ。19世紀末に集合論によって数学の厳密さが確立されたはずであったが、再び数学の基礎が危ういと言われ始めた。集合論はあらゆる数学的な対象は点というものの集まりであると考え、この概念で数学が厳密に行えると19世紀末に数学者たちは考えたわけだが、これが危うくなった。
 「ものの集まりには二種類あります。ひとつは1、2、3といった自然数すべての集まりで、これをNとします。自然数2は自然数をすべて集めた集合に所属しているわけですが、ここで自然数全体のなす集合は、自然数全体のなす集合に所属しているでしょうか。
 鉛筆3本の集合があったとして、その集合はあくまで鉛筆1、2、3から成るのであって、“3本集めた集まり”そのものは鉛筆3本の集合そのものの中にはありません。
 自然数全部を集めたものがNですが、そのNの中にはNそのものは入っていないのです」
 このようにほとんどの集合は自分には属していない。そういう性質の集合をすべて集めると、それ自体ひとつのものの集まりになる。この「自分自身に所属していないという性質をみたす集合をすべて集めてきた集合」のことをラッセル集合Rと呼ぶ。
 「ここからが問題で、それではラッセル集合Rそのものは自分自身に所属しているだろうか、と考える。仮に所属していると仮定すると、そもそも自分が自分に所属していないという性質を満たす集合だけを集めてきたのがRですから、RはRに属していないということになる。つまりRがRに属していると仮定するとRはRに属していないという結論が導かれてしまっておかしい。ではRはRに属していないと仮定してみると、Rはそもそも、自分自身に属していない集合はすべて集めてきているはずなわけですから、RはRに属しているということになる。このように、RがRに属していると仮定するとRはRに属していないという結論が導きだされて、RがRに属していないと仮定すると、RはRに属しているという結論が導きだされてしまうわけです。これを普通、数学では”矛盾”と呼びます。」

暴力的なまでの夢想の続き

 この議論そのものはきわめて論理的に進められているにも関わらず、おかしな結論が導きだされてしまった。ということは「ものの集まり(=集合)というあまりにも素朴で無害に思える概念のなかに、何か危険なものが隠れているのかもしれない」と疑われ始め、厳密さへの不安が高じた。そこで提唱されたのが、現代数学の始祖といわれるダフィット・ヒルベルトによるヒルベルトプログラムである。
 「ヒルベルトが言ったのは、“地に足をつけようぜ”ということで、イデアール(ideal)ではなくレアール(real)の世界で数学をしよう、無限概念を無闇に使わずに、数学を有限的な手続きに回収してやろう、と提案した。」
 具体的には、数学の全体を記号処理の有限の操作に還元しようとした。それはいまで言えば、数学を機械でも実行可能な手続きに翻訳しようとしたということだとも言える。それはピタゴラスの暴力的なまでの夢想の続きにも見える。

数についての命題までも数に置き換える

 ヒルベルトの夢が、ヒルベルトが夢見たかたちのままでは実現が不可能なことを示したのが、ゲーデルの1931年の論文「プリンキピア・マテマティカ及び関連した体系の形式的に決定不能な命題についてⅠ」であった。
 証明にあたって用いられた最も重要な概念のひとつがゲーデル数化であった。たとえば、数字について書かれた命題は「数字について」書かれてはいても、「数字について語った命題について」は何も語っていない。だがゲーデルはありとあらゆる命題に数を割り振る方法を考えた。こうして、数についての命題が数になるようにした。
 「3という数があって、そのひとつ上のレイヤーに3+3=6という数についての命題があるように、”数”と”数についての命題”は階層が違います。だけど3+3=6がひとつの数になれば、数についてしか語れない体系の中で『数についての命題』について語ることができる。数についての命題をそれぞれ数に置き換えてしまうことで、数についてしか語れない体系の中で、数について語っていることについて語ることを可能にしてしまった。これがゲーデルの不完全性定理の証明で、非常に重要なアイディアになっています。」