INTERVIEW

未知と知性のまじわる処

森田真生インタビュー

posted: 2012/10/21

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南方熊楠とmessiness

「コレオグラフライフ ― 乱 ―」の“乱”にはランダムネスという意味をかけていると伺っています。また、サブタイトルがふるっていますね。「未知と知性の雑る処、心は自ら動き出す。ランダムネスを乗り越えるのではなく、ランダムネスを糧にして…」

森田
 今回のタイトルを決めるにあたっては、南方熊楠の存在をかなり意識しました。僕はいま独立研究者を名乗っていますが、その第一のロールモデルはやっぱり熊楠なんです。南方熊楠はまさに、混沌とした「森」という場所に宿るランダムネスそのものを糧として学問をした人でした。那智の山奥深くへと分け入って、日々、自然の未知や謎と向き合っていた熊楠は、「世界」という収まりのいい言葉をつかう代わりに「不思議」という表現をつかうことを好みました。これは、熊楠の自然に対する謙虚さの表れだと思います。「世界」という言葉にはどこか傲慢な響きがある。本来、自然は僕らの理解には回収されないものや現象にみちているわけですが、それを「世界」と一言で言ってしまうと、何か分かったような気になってしまう。自然という底なしの謎を、そういう安易な言葉に回収してしまうことの危険を敏感に感じていたからこそ、熊楠は「不思議」という言葉にこだわったのではないでしょうか。
 実際、熊楠は心不思議、物不思議、事不思議、理不思議、大日如来の大不思議という諸不思議の織りなす体系として「南方曼荼羅」を構想するわけですが、中でも彼は、物不思議と心不思議の「まじわる」ところに生じる事不思議の世界へと、深く分け入っていく学問ということを志しました。
 このあたりの熊楠のビジョンを僕なりに意識をして、今回のタイトルは決めました。

2012.9.24 熊野にて

交わりを重視……森田さんが研究されている圏論の「関係性」を思い浮かべました。

森田
 熊楠は、その「まじわり」という言葉に「雑」という字をあてるんですよね。「雑(まじわ)る」という風に書くわけです。「雑」を「まじわり」と読ませてしまう熊楠のこのセンスが、僕は大好きです。
 雑――英語で言えばmessinessという言葉を想起させられます。熊楠は学問においてmessinessを排除するのではなく、積極的にそれを引き受けていこうとした人でした。雑然としたもの、容易には分類できないもの、そうしたものを熊楠は愛しました。
 生命というのは、物理世界の中では、極端に小さいミクロの量子的なスケールでも、極端に大きいマクロの宇宙論的スケールでもなく、ちょうどその中間のスケールで現象します。この中間的なスケールの世界の特徴は、そこが絶えずせわしなく動き続けているということです。実際、細胞のスケールでは、熱運動する媒質の分子の不規則な衝突によって、ブラウン運動というランダムな運動が絶えず展開されています。生命はこういうせわしない、ランダムな運動の中から生まれてきた。
 生命の誕生そのものが、地球からエネルギーを奪ってそれを生きるためのエネルギーに変換するという、地球上最初の産業革命でもあったわけですが、この産業革命は、ランダムネスの中から生まれてきたわけです。一方、人間の手によるいわゆる産業革命は、ランダムネスやノイズを極力排除することによって成り立っています。
 本来、生命はmessinessの中で、雑然としたmessinessそのものをリソースとしてやってきた。そのことの意味を、いまいちどちゃんと考えてみたいという風に考えています。

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数学におけるノイズ

 数学においても「雑」という概念は重要なのでしょうか。

森田
 数学では「ランダムネス」という概念を研究対象としている人たちがいます。
 「ランダムネスとは何か?」ということを数学的にきちんと定式化することはとても難しいわけですが、様々な数学者が、様々なアプローチでそれを試みてきました。
 例えば、0101010101...という列や1111111...という列は、あまりランダムな感じがしないですよね。ランダムじゃない列には、何か「特別な」ルールがある。逆に言うと、ランダムな列にはなんら特別なところがない。つまり、ランダムネスとは「典型性」のことだ、というのがひとつのあり得る考え方です。あるいは、ランダムでない列は、列の一部分だけ見れば、そのあとその列がどのように続いていくのかを予測することができるという点に注目すれば、ランダムネスとは「予測不可能性」のことなのだ、ということもできそうです。さらに別の見方もできます。例えば11111...という無限に長い列は、「1をずっと書き続けなさい」という有限のメッセージに圧縮することができます。つまりランダムでない列というのは、圧縮が可能な列だ、という風に考えることもできる。となると、ランダムネスとは「圧縮不可能性」のことである、と言いたくなってきます。
 このように、ランダムネスとは何だろうかという問いに対して、1)典型性、2)予測不可能性、3)圧縮不可能性、という異なる立場があり得るわけですが、興味深いことに、これら三つの異なる立場でそれぞれにランダムネスという概念の数学的定義が試みられた結果、このどの立場に立った定義も、最終的には互いに同値になってしまう、ということが20世紀の後半になって、分かってきたのです。
 「ランダムネス」という漠然とした概念をなんとかして数学的に定式化してやろうとして、様々な立場で様々な定義が試みられた結果、それらが互いに同じものを指し示しているということが明らかになった。こういうことは数学ではしばしば起こるわけですが、こうなってくると「ランダムネス」という概念には、どうやらはっきりした数学的な輪郭があるんじゃないか、という気がしてくるわけです。
 「ランダムネスとは何だろうか?」というと哲学的な問いのようにも聞こえますが、これは立派な数学的問いで、実際、数学の発展によって、ランダムネスという概念に対する理解は、確実に深まってきている。
 このように「ランダムネス」というような原理的な概念に対する理解が深まっていくというのは、数学のひとつの大きな醍醐味だと思いますが、このようなある種の哲学的関心だけでなく、数学の道具のひとつとしてもランダムネスは重要な役割を果たしています。
 例えば、近年盛んに研究をされている乱択アルゴリズムの理論は、ランダムネスそのものを積極的に使った計算を考えようとしています。

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